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第5話 いいひと

作者: 雫石しま
last update 最終更新日: 2025-10-05 03:51:23

自動ドアを踏むと街は動き出していた。サラリーマンや学生が横断歩道を渡って行く。雪雲の晴れ間から覗く太陽が、黄色く見えた。

「やだ、もう」

シワのついたブラウスをコートで隠しながらタクシーに手を挙げた。頭が割れるように痛む。今日の授業は何時からだったか、車窓から鈍色の空を見上げる。牡丹雪がハラハラと舞い落ち、夏の日に見た白いワイシャツを思い出させた。

「長土塀までお願いします」

夫の一周忌すら迎えていないのに、見ず知らずの男性に身を任せた。そんな自分の卑しさに涙が溢れる。「ありがとうございました」タクシー料金はワンメーターと少し…意外と近い。タクシーの後部座席のドアが開き静かに降りると、細い路地の灯台躑躅は白い雪を被り悲しげに首を垂れていた。錆びついた赤いポストの新聞が私の帰りを待っている。

「…ふぅ」

人気のない家は冷え切っていた。土間は氷のようで足元から凍える。ストーブの芯にマッチを擦ると、灯油の匂いが辺りに広がった。やがてカンカンとヤカンが騒ぎ出す。

「ただいま帰りました」

座布団に正座すると、その冷たさに飛び上がった。蝋燭に火を灯し、線香を燻らす。白檀の煙が身体を清めてくれるような気がした。新聞を小さな仏壇に供え、鈴を鳴らして手を合わせる。菩提樹の枝から雪がバサバサと落ちた。いつもなら、微笑む遺影が厳しい目を向けてくる。「ごめんなさい、だらしない私…駄目ね…」相手の家庭を壊してまで手に入れた愛情は呆気なく消えてしまった。涙が頬をゆっくりと伝う。

美術工芸大学のキャンパスは、石膏を削る音が響き、油絵具のテレピン油の臭いが鼻をついた。学生や助教授たちの行き交う騒めきが、私の一日の始まりを告げる。

「おはようございます」

「おはよう」

そして私はロッカールームで髪を一つに纏め、薄汚れた白衣を羽織る。

「…あれ?この匂い」

そういえば昨夜のタクシーの中で私の肩を抱いた指先からも同じ匂いがした。染色に使う顔料だ。「もしかして…」薄手のダウンジャケットを羽織った鳥の巣頭の男性は同業者かもしれない。まさか…、そう思いながら胸がざわついた。けれど金沢市には加賀友禅の工房が何軒もある。まさか、その工房を一軒ずつ探して歩く訳にも行かない。馬鹿げた話だ。

「馬鹿みたい」

そして私は何事もなかったような顔をして教壇に立つ。かつての夫がそうであったように…。

「こんばんは」

「あら、橙子ちゃん、いらっしゃい」

あの夜の出会い以来、私は吾亦紅に頻繁に通うようになっていた。お猪口を口につけながら、鳥の巣頭の男性に会えるかもしれないという思いと、会ってどうするのかという思いが往来した。カウンターの一番奥に座り、引き戸が開くたびに視線を上げた。女将から「誰かを待っているのかい?」と尋ねられ口篭っていると、店主が咳払いをする。どうやら店主は私の目論見を察しているらしい。思わず顔が赤く赤らんだ。

「…一見さんだから」

店主は鰤を刺身に切り分けながらボソっと呟いた。

「そうなんですか?」

「ああ、初めて見るお客さんだ」

あの雨宮というサラリーマンが予約を入れたのは最初で最後だったという。話題に上らないということは、鳥の巣頭の男性もそうなのだろう。私が肩を落とし金時草の酢の物を箸で突いていると、店主は視線をまな板に落としながら低い声で言った。

「会うべくして会う相手は、そんな必死に探すもんじゃねぇ」

「…え?」

「ある日突然、出会うんだ…ひょこっとな」

すると女将は菜箸をシンクに置くと、恥ずかしそうに頬を押さえて店主の背中を叩いた。自分たちの出会いを思い描いているのだろう。「…良いですね」私が溜め息を吐くと女将はお銚子を漬けながら「橙子ちゃんなら、すぐにいいひと出来るって」と笑った。

「ひょこっと会いたいですね」

「あぁ、会えるさ…それが橙子ちゃんのいいひとならな」

私は苦笑いをし、不意に掴まれた手首の感触を思い出しながら一人寂しくお銚子を傾けた。

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